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内なる精神世界へ    
  -川上力三 個展に寄せて-  
   

藤  慶之

   

美術ジャーナリスト

2004年 ギャラリーマロニエ個展 作品集掲載文

 

 

 洛西・鈴虫寺のすぐ近くに工房を構える前衛陶芸家・川上力三氏が、三年振りに地
 
元京都で個展を開くという。闘病生活を経験したあとの作陶だし、七十歳の大台も近
 
づいていることだから、きっと小品展になるに違いない。そんな思いで工房を訪ねて
 
みると、予想に反して力のみなぎった大作群が焼きあがっていた。そういえば、三年
 
前の個展の際も、入院・手術を先に延ばしながらの制作だったが、自らを甘やかすこ
 
とを良しとせず、ユニークな「火の器」 「水の器」シリーズを発表して気を吐いたものだ。
 
 一体、このエネルギーはどこから生まれてくるのだろう。「家具の街」で知られる
 
洛中・夷川通りの名家に生まれながら、商人の道に進むことを嫌い、焼き物の世界へ
 
入った。「小さい頃から家具作りの職人達のすごい仕事を見ながら育ったので、いつ
 
しかモノ作りが好きになったのではないかな」と回想する。いったん選んだ自分の道だ
 
から、どんな逆境の波にさらされようと泣きごとは言えない。生来の負けず嫌い、
 
反骨精神のあらわれか。
 
 反骨精神といえば、この作家が若き日から今日まで一貫して陶彫オブジェのテーマ
 
にしてきたのは、社会の虚飾や権威、不条理に対する異議申し立てであり、ひいては
 
群れることを潔しとしない人間凝視の姿でもあった。一例をあげれば、空き缶ポイ捨
 
てに警鐘を鳴らした初期作。権力の座にある者も、いつかは終りがあるのだ!と告発
 
する「砂の塔」や「段」シリーズ。
 
 ところが、今回の発表作 「門」 シリーズでは、同じように面倒な手びねり(ひも
 
づくり)成形でありながら、従来ややもすれば外部世界への警鐘を内に秘めていた複
 
雑な造形が単純化され、発想そのものも内なる精神世界へと微妙に変化しているよう
 
に思われてならない。古代の銅鐸を思わす丸味のある陶彫には、入り口が広くて出口の
 
狭い門が貫かれている。左右二つのユニットを木造建築風に連結させた門もある。珍し
 
いのは、禅の円相を造形化したような作例。仏教寺院に見られる門は、修行僧たちが俗
 
世を捨てて信仰の道に入る第一歩として厳粛な思いでくぐらねばならぬ場所。川上氏は
 
幾度となく訪れた韓国・釜山の山寺で、現世と来世をつなぐ「通度門」を見たのが、
 
「門」シリーズ制作のきっかけになったという。
 
 仏門に入る修行僧ならずとも、この世に生を受け、いつかは必ず死を迎える人間に
 
とって、人生そのものが修行の道なのかも知れない。逆境をはねのけ、闘病生活を乗
 
り越えながら作陶修行に専念する川上氏だからこそ、このことわりが五体に染みつい
 
ているのだろうか。自宅玄関先に「通度軒」なる門札をかかげ「ボクが求めてきたも
 
のは、内面的な門の追求。祈りの気持ちで通度の門をくぐり、残りの人生を精一杯生
 
きていきたい」と心境をもらす
 
 発表作の「門」シリーズには、暗調なベースに銀色や青色、赤茶色も施され、修行者
 
は言うに及ばず微風も小鳥たちも、これらの門をくぐり抜け、明日への光明を目指す
 
に違いない。少しも手抜きした跡がないのに、これまでの作例とは一味も二味も違っ
 
た深みのある豊かさが漂い始めたのは、やはり努力の年輪を重ねたおかげというべき
 
か。体力的には若き日の馬力が薄らいだものの、その代わりに貴重な何かを得たに違
 
いない。

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